キリストのみことばに養われて

あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にしますーヨハネ8:32ー

Welcome!!!

こんにちわ~ みのんです。

「キリストのみことばに養われて」にお越しくださり、ありがとうございます。

心から歓迎します。 

このブログは、聖書のみことばについて分かち合い、みことばを通してみなさんとご一緒に養われ、成長し、イエス様の似姿に変えていただければという願いを込めて運営しています。

 

ゆっくりとお茶と美味しいお菓子などを食べながら、みことばを味わい、楽しんでくださいね。

 

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よろしくお願いします。 

 

 このブログを通していろいろな方と出会い、主にある交流が出来ればなぁって心から願っています。

仲良くしてくださいね(*^_^*)

 

さぁ、ご一緒に主がみことばを通して、ご自身の栄光が現されるよう、そして私たちを養われ、造りかえられ、みことばによって自由にされていきましょう!

エス様の豊かな恵みに留まれますように、祝福を祈ります☆

 

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昨日でも明日でもない、大切なのは今日

こんにちわ~

今日も無事終わりました。ほっ♪

 

今日は思っていること、書きますね。

雑記です。

 

クリスチャンの心のあり方

 

クリスチャンの本質っていうか、クリスチャンってどういう存在なんだろうっていうことです。

 

 クリスチャンはいつも進化系

思うんですが、クリスチャンっていつも進化形、進行形な存在なんだと思うんです。

だってね、ぼくたちは毎日、神様によって造りかえられているんです。

 

だからね、昨日のぼくと今日もぼくは違うんです。

 

大切なのは、昨日の自分を見て落ち込むことなんじゃなく、今、今日の自分を、神様が造りかえ、新しくされているんだって、信仰によって受け取ることなんです。

 

神様はぼくたちを造りかえるため、時に試練を与えられます。

悲しいかな、ぼくたちの内にある罪が大きくて、それを砕くためにはこうせざるを得ないんです。

そうやって、ぼくたちは毎日新しくされ、イエス様の似姿に変えられているんです。

 

だから、今日という日、イエス様の似姿に変えられている自分を受け入れ、その恵みを感謝することなんです。

そう、神様から与えられ、ご自身の似姿に造りかえてくださっている恵みに感謝しつつ。。。

 

 過去や未来に恐れる私たちの心

私たちは、過去を見て、過去の自分に「あの時どうしてああやらなかったんだろう」とか、「あの時ちゃんとやっていれば」とか、「あんなことして」「あんな失礼なこと言っちゃって」って、自分で自分を裁き、責め、それを今の自分に投影し、自分の評価を落としてしまう傾向があると思います。

 

また、明日の自分、つまり将来を勝手にイメージし、これが足りないから出来ないとか、将来いったいどうなるんだろう。。。とか、勝手に自分の将来を作り上げてしまい、不安になっちゃうんですよね。

 

エス様はそれに対して何と言われてるのか?

でもね、イエス様はこう言っています。

ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。

これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。

あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。

あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。

まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。

ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。

明日のことは明日が心配します。

労苦はその日その日に十分あります。

マタイ6:31~34

 

明日のことは明日が心配します。

労苦はその日その日に十分あります。

 

過去のことで落ち込んだり、未来のことで心配したり、、

でもそうじゃないんですよね。

すべては神様の主権であり、神様は私たちを正しき道に導き、最善をしてくださっている。

その神様の導きに信頼し、今与えられている「今日」という日を感謝することが大切なんですよね。

 

私たちの心のあり方

神の国と神の義を第一とする。

そして「今日」という日を感謝し、主に信頼し、依り頼む一日を過ごす。

これなんですよね。

 

だいたい、過去をどんなに公開しても、戻ることは出来ませんよね。

だって、どこでもドアがあるわけじゃないし、どんなにがんばっても過去をやり直して修正することなんて出来ません。

そして、過去の失敗も意味があり、神様はその失敗を通して私たちを造りかえてくださり、祝福に変えてくださるんです。

 

ぼくも過去を振り返ると、なんて失礼なことしたんだろうとか、なんて無責任な態度を取ったんだろうとか、もっとちゃんとやればよかったとか、信用をなくしてしまったことなど、いっぱいあります。

あるものは今も引きずっている部分もあります。

でもね、そういう過去を通して、今砕かれ、自分の弱さや無能さを知り、神様に信頼すること、へりくだることを学んで来ました。

 

それにね、過去どんなに失敗したとしても、人に迷惑をかけたとしても、今生かされ、神様に支えられていますよね。

過去に縛られている人って、あんがいそのことを忘れてると思うんですよ。

自分も含めて。

 

結論:今日を生きよう

ほんと、今日という日を感謝し、大切にして歩みたいです。

そのことをここ数日、思い巡らしていました。

 

過去を見て落ち込んだり、過去の喜びや過去の思い出の中に埋没してしまうのではなく、まだ来ていない将来に不安を抱くのでも無く、「今日」を感謝し、大切に生きる。

その先が明日なんです。

そして、過去も「今日」のために必要なことです。

そのことを忘れることなく、与えられた「今日」を歩む。

お互いにそうしていきましょうね。

 

じゃぁね。

みことばによって養われると。。。

こんにちわ~

今日も無事一日が終わりました。

ほっ♪

今週もあと1日ですね。主よ、感謝します。

 

さてさて、今日、新約聖書使徒の働き20章を味わっていたんですが、その箇所から分かち合いますね。

 

今私は、あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます。

みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができるのです。

使徒20:32

 

これ、パウロの第三回伝道旅行での出来事なんですが、旅行中、どうしても速くエルサレム教会に援助するためのお金を届けるため、エペソ教会によって励ましたいところ、泣く泣く寄れないこととなり、その代わりにエペソ教会の長老をミレトスという港に来てもらい、その長老の人たちにメッセージを語ったんですが、そのメッセージの終わりに語られた内容なんです。

 

あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます。

パウロはこのことばをエペソの教会の長老たちに託しました。

「神と恵みのみことばにゆだねる」

みことばによって彼らは守られるんです。

みことばは、神様が私たちを守る際に用いられる方法です。

だからパウロは「神とその恵みのみことばにゆだねます」って言ってるんです。

 

みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができるのです。

パウロはみことばの力について語ってます。

 

1,神のみことばは私たちを育成する

「育成」っていうと、えっ?!って思うかもしれませんね。

早い話が、養われるとか、育てられるとか、そういう意味なんです。

 

そして、私たちが育成される中で、神様のみことばによって、イエス様の似姿に変えられるんです。

それはまさにみことばの力で、私たちがそのみことばに信頼し、日々味わい、そこに身をゆだねるとき、私たちを神様は育成してくださるんです。

 

私たちは、みことばによって生まれ(第一ペテロ2:2)、生かされ(詩篇119:50)、成長する(第一ペテロ2:2)です。

 

2,神のみことばは、私たちに御国を継がせることができる

私たちの聖化の歩み、そう育成ですね。

私たちがみことばにうよって養われ、イエス様の似姿に変えられたとき、私たちが神様が用意された「御国」を相続するようになるんです。

 

ほんと、私たちはみことばによって育成、養われる必要があるんですよね。

みことばを後回しにしたり、日々の生活に埋没し、気づいたらみことばから離れているとか、その代償はとっても大きいです。

その結果って、サタンの餌食にされちゃうんです。

 

みことばを味わい、養われる、歩み、したいですね。

この一日もみことばを大切に、いえ、みことばを第一にする歩みをすることが出来ますように☆

 

じゃぁね

イエス様の真の姿を通して

こんにちわ~

今日も無事終わりました。

今週もあと1日、主よ、今週も守り支えてくださり、心から感謝致します。

 

 

 

 

これ、Twitterにアップしたものです。

実はね、これ、今日、ヨハネの黙示録1章を味わってて、その中で思わされたことなんです。

1章17節にこう記されています。

 

☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○

この方を見たとき、私は死んだ者のように、その足もとに倒れ込んだ。

すると、その方は私の上に右手を置いて言われた。

「恐れることはない。わたしは初めであり、終わりであり、生きている者である。」

(ヨハネの黙示録1:17~18a)

☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○

 

「この方」って、イエス様のことです。

ぼくたちのイメージするイエス様って、優しくて、愛に溢れて、深い慰め主であるお方。

でも、ヨハネが見たイエス様はそれとは違っていたんです。

 

栄光で照り輝き、燃える炎のような目、つまりすべてを見通し、人の心の奥底まで知り尽くしておられる目で見られ、両刃の剣、すなわち神のことばをもって人を裁かれるお方、威厳に満ちた声で語られたイエス様。

 

エス様が地上で歩まれたとき、ヨハネはイエス様のそば近くにいました。

そして彼は自らのことを「イエスが愛された弟子」(ヨハネ21:20)とヨハネ福音書で書いているヨハネ

その時から約60年後、ヨハネはイエス様に再会しました。

 

当時はイエス様の愛をいっぱい受け、いつも御そば近くにいたヨハネでしたが、この時、死んだ者のようにイエス様の足もとに倒れちゃったんです。

つまりあまりのきよさと栄光で卒倒して気絶しちゃったんです。

 

パウロも、栄光に満ちたイエス様を前にしたとき、倒れちゃったんですよね。

☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○

ところが、サウロが道を進んでダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が枯れの周りを照らした。

彼は地に倒れて、自分に語りかける声を聞いた。

「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」

☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○

 

栄光に満ちたイエス様、裁き主であり、義なるイエス様。

実は、将来ぼくたちがお会いするイエス様もこのイエス様なんです。

でも、多くの場合、優しくて、愛に溢れ、何でも赦してくださるお方、そのイメージがあまりにも強く、この義なるイエス様というイメージが希薄になっちゃうような気がするんです。

 

もちろん、イエス様は私たちの弱さをすべてご存じで、私たちのためにとりなし祈ってくださっているお方です。

エス様は本当に愛に溢れ、慰めに満ちておられるお方です。

でもね、そのイメージが強ければ強いほど、イエス様が今義なるお方であるということを忘れてしまうんですね。

そして、「友」という言葉のインパクトが強いので、まるでイエスちゃんとか、イエスくんって、もちろんそうは呼ばないけど、そういうレベルにイエス様を引き下げちゃうんじゃないのかなって思います。

 

あのヨハネが気絶しちゃう、これでイエス様がどんなに威厳と権威に満ちておられるお方かがわかりますよね。

ぼくたちは、この両面を理解し、イエス様に対する畏怖の念を持つことも大切なんだなって思うんです。

 

すごく興味深いのは、その権威と威厳に満ちたイエス様がヨハネのに上に右手を置いて、「恐れることはない」って、交わりの御手を出してくださったんです。

これ、重いなぁって思います。

エス様の右手、この栄光に満ちたイエス様がぼくたちに近づき、優しく右の手を置いてくださり、「恐れるな」って言ってくださる。

すごいですよね。そして、このバランスがものすごく重要なんです。

 

ぼくたちの愛する方、このお方がどういう方かということ、そのことを深く知れば知るほど、ぼくたちの歩みも変わってくると思います。

ぼくたちはイエス様の御前にへりくだり、日々礼拝する者でありたいですね。

そして、イエス様の愛の中で、真の平和、真の平安で満たされ、そこに憩う生活をしていきたいです。

 

そんなことを今日は思い巡らしました。

 

じゃぁね