キリストの優しい風

キリストの優しい風に吹かれ、自由に導かれ、癒やされ、変えられていく幸せをあなたと。。。

御霊によって生きよう

こんにちわ~

気づいてみたら、ずいぶんと放置状態でしたね。

ごめんなさい(_ _)

 

また今日からいろいろと書いていきたいなって思ってます。

聖書の学びのことや、神様との交わりの中で教えられたことなど、ほんとに自由にゆるーーく書いていきます。

 

っていうか、そういうゆるいブログの方が自分らしいっていうか、なんかそんな気がするからです。

 

 

さてさて、今回は、みことばの分かち合いをします。

前回までのマタイ13章からの分かち合いは、また別の時に書きますから、お待ち下さいね。

 

今日は「御霊によって生きる」っていうことについて分かち合いたいと思います。

 

御霊によって生きる

ガラテヤ人への手紙5章25節には、こうあります。

☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○

私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。

☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○

 
私たちクリスチャンは、聖霊の助けなくしては、ほんと、何一つ出来ないですよね。

そのことをつくづく感じさせられています。


でね、上のみことばで、「御霊によって進もうではありませんか」ってあります。

この「進む」って、実は原語であるギリシャ語では軍隊用語で、兵士たちが足並みをそろえて行進する様子を表現する言葉なんです。

だからね、パウロはここで、クリスチャンは御霊によって、御霊に導かれて、足並みを揃えて行進する髪の軍勢だっていうことを言ってるんですね。


でも、一人でも足並みが乱れると、全体に悪影響を与えてしまいます。

だから、「御霊によって生きる」っていうことがすごく大事なんですよね。

 


コリント人への手紙第二で、パウロは人間を三種類に分類しています。

 

1、生まれながらの人

これは未信者、つまり聖霊による新生を体験する前の人のことです。
ぼくたちはみんな、救われる前はこの状態だったんですよね。

 

2、御霊の人

これは、聖霊体験をし、その後も御霊に導かれて生きている人、つまり正常なクリスチャン生活を送っている人のことです.

 

3、キリストにある幼子

これは、新生体験はあっても、霊的にはまだ十分成長していない人のことです。
もちろん、霊的な幼子であることは悪いことではないんですが、でもね、何年、何十年経っても、まだ赤ちゃんの状態、成長したとしても体は大人でも幼稚園児レベルじゃまずいですよね。

この霊的幼児の特徴なんですが、それは目新しい教えに振り回されることです。
そういう人は、福音の真理に立っているんじゃなくて、新しい教えが入る度にそれに飛びつき、その新しい教えの波にもてあそばれている状態の人なんです。

 

私たちは「御霊の人」として、クリスチャンライフを送りたいですよね。

 

 

で、先に挙げたガラテヤ人への手紙5章~6章にかけて、パウロは御霊の人の生き方に関しての7つの勧めをしています。

それを通して、御霊の人として歩む者へと導いて頂きましょう。


1、この世の栄華を求めるような生き方とは決別すること(5:26)

もし虚栄心に走っているなら、その人は霊的幼児です。

 

2、過ちに陥っている人を正してあげること(6:1)

これは柔和な心で行わなければなりません。
そして霊的幼児は、誤った教えの影響を受けやすいので、霊的指導が必要なんです。

 

3、お互いの重荷を負い合うこと(6:2)

各人には、ひとりでは追い切れないほど大きな重荷が与えられているので、助け合う必要があるんです。

6章2節をみると、「そうすれば、キリストの律法を成就することになります」ってあります。


「キリストの律法」とは、新約時代のクリスチャンたちに与えられている命令のことで、愛の律法です。
具体的には、新約聖書で命じている事柄がキリストの律法です。

 

私たちはモーセの律法に従う義務は全くありません。
でも、クリスチャンは新約の律法、つまりキリストの律法に従うよう、召されているんです。

つまり、私たちクリスチャンがお互いに助け合い、重荷を負い合うこと、それ自体が重要で、それによってキリストの律法が全うされるんです。

 

私たちはキリストのからだであり、実は私たちクリスチャンのことを聖書は「教会」って呼んでいるんです。
「○○キリスト教会」という建物のことを一般的には「教会」って呼びますよね。
それは正解です。

でも、同時に、救われた私たち一人一人は、目に見えない教会、これを「普遍的教会」って呼ぶんです。

だからね、私たち自身が教会なんです。

 

そして、お互いの重荷を負い合うこと、それによって教会が建てあげられていくんです。

 

4、正しい自己評価を下すこと(6:3~5)

過大評価をしても、過小評価をしてもいけません。
神様の目には、自分はどのように映っているのかなって常に自問自答することが大切です。

5節を見ると、「人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うことになるのです」ってあります。

これは、ひとりひとりの能力に応じて与えられている重荷のことです。

 

 

5、みことばを教えられる人は、教える人とすべての良いものを分け合うこと(6:6)

「みことばを教えられる人」とは、その教えによって霊的祝福を受けた人のことです。
その人は、教える人とすべての良いものを分け合うべきです。

 

さて、「すべての良いもの」ってありますが、これは何でしょう?
これは具体的には物質的なものを指しています。

つまり、霊的指導を受ける人は、霊的指導者に対して物質的な祝福を与える義務があるんだということなんです。

そして、これを実践することは、神様の祝福を受ける道なんです。

 

教会の牧師先生って生活が大変だってよく聞きますよね。

でも、このパウロの勧めを見ると、それってまずいんですよね。

みことばを教えられる人が霊的指導者を支え、少なくとも貧しくて良いという考えを捨て、お金のことで心配しなくてもよい生活をしてもらうこと、それはとっても大切なことだと思います。

 


6、正しく種を蒔くこと(6:7~9)

パウロはすでに、クリスチャンは二面性を持っているんだということを論じてきました。

この二面性とは、霊的な面と肉的な面です。

 

私たちの霊は、御霊によって新しく生まれました。

つまり、私たちには新しい性質が与えられているんです。

その「霊性」に従って行動を起こすなら、それは永遠のいのちにつながります。

しかし、古い性質である「肉」に従って行動を起こすなら、滅びを刈り取るようになるんです。

この真理をそのまま受け入れない人は、神を侮る人です。


そんなこと言っても、そんな神様の裁きなんでいつまでも来ないじゃんって思うかもしれません。

でもね、それは大きな間違い、そうじゃなく、神の裁きが下らない様に見えるのは、神様が罪人の悔い改めを忍耐して待っておられるからなんです。

 

でも、それも永遠じゃないです。

その忍耐に甘えて、ずーーーっと無視し続けたら、最後に裁きが待っています。

すべての人は死後、神様の前に出なければいけないからです。

 


7、善を行い続けること(6:9~10)

失望しないで善を行い続けるなら、必ず神の時が来て、豊かな収穫を刈り取ることとなります。

ただ、10節を見ると、不思議なことが書かれています。

ですから、私たちは機会があるうちに、すべての人に、特に信仰の家族に善を行いましょう

 

善を行う場合、私たちはまず未信者を優先するっていうイメージがあるかもしれませんね。

だって、そうすることは証しになりますしね。

でもパウロ、「特に信仰の家族に善を行いましょう」って語っています。

 

つまり、善を行う場合、未信者よりも、まず信者を優先するということなんです。

この方が結果は祝福されるとパウロは教えています。

 

私たちは証しにもなるし、伝道にもなるので、未信者優先って考えがちですが、私たちの常識と神様のことばとは違うんですね。

すごく興味深いです。

だからね、何か緊急時、まず私たちの信仰の仲間を優先するということです。

 

 

御霊の人生き方の特徴を7つ挙げました。

聖霊に依り頼み、聖霊の流れに導かれ、御霊の語られることに敏感でありたいですね。

そして、以上の7つの勧め、実行していきたいですね。

 

今回はこの辺で。。。
じゃぁね(@^^)/~~~