キリストの優しい風

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聖霊が住んでおられるって?

こんにちわ~

今日は聖霊が私たちの内に住んでいるっていうことについて書きますね。

 

  

聖霊が内に住んでいるってどういうこと?

礼拝での出来事

日曜日、礼拝でこんなことを聞きました。

 ある地域で行われた聖会にある未信者の人が参加していたそうです。

地元の牧師もその人のために祈り、福音を伝えてきました。

しかしその人、何度イエス様を受け入れるように促しても、「距離を感じるから」という理由で断り続けてきたそうです。

 

もちろん、その人には、イエス様がその人の罪のために十字架にかかり、墓に葬られ、三日目によみがえったという福音の三要素をきちんと伝えました。

しかし、その時も、「それは理解出来る、でもまだ距離を感じるんです」と言われ、そうやってかなり長い年月引き延ばして来ました。

 

そして、講師の先生もその人に福音の三要素を語ったけど、まだ距離があるのでって言われたそうです。

そこでその先生、その人に「どんなふうに距離を感じるんですか?」って聞いたところ、「信じた人には聖霊が宿るって聞きますが、どうもそれがピンと来ないし、まだその実感も持てないんです。だから・・・」ってその人が言ったそうです。

 

その先生、その人に言いました。「○○さんは聖霊が宿ったらこんなふうになるんだろうなっていうイメージをお持ちなんですね。でもそれを持っている限り、いつまでたっても距離感が縮まりませんよ。聖霊が宿らなければ、あなたは今ここにいないでしょうし、福音を理解することもできないです。理解したということは聖霊が住んでおられる証拠なんです」

 

その瞬間、その人の表情がガラッと変わり、満面の笑顔になり、「あっ、はじめて腑に落ちました。そうなんですね」って、それで福音を受け入れ、イエス様を信じる決心をしたそうです。

 

聖霊が住んでいるっていうこと

これ、聖霊が住んでいることがわからないという人、けっこういるんじゃないのかなって思います。

びっくりしたのは、ある人から聞いたんですが、その人の周りのクリスチャンの人で「私には聖霊は宿っていない」って言う人がけっこういたとのこと。

 

おそらくそれは、上の求道者の人と同じで、聖霊が宿っていたらこうなるんだっていう固定概念があるからなのかなって思うんです。

 

聖書はどう言っているの?

じゃぁ、聖書はどう言ってるんでしょう。

第一コリント12章3節にはこうあります。

 

ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。

神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。

 

パウロは明確に言ってますよね、「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません」って。

ていうことは、福音の三要素を信じ受け入れたということは、それは聖霊によるのであり、その人の内に聖霊がおられる証拠なんです。

 

聖霊はいつ私たちの内に住んでくださるの?

私たちがイエス様を信じ受け入れたとき、聖霊は私たちの内に住んでくださいます。

信じた瞬間です。

でも、それは必ずしも「聖霊が住んでる~」っていう感じがするということではないです。

逆に聖霊がもし住んでいるなら、どうして未だこういう状態なんだろうって思っちゃうこともあるかもしれません。

 

でもね、実はそれも聖霊が住んでおられる証拠なんです。

だってね、もし住んでいなかったら、そんなことを思わないでしょう。

聖霊は罪を指摘し、神様の御心を教えてくださいますから。

 

私たちは感じようが感じまいが関係無く、私たちの内に聖霊がおられるんだって認め、このお方に信頼することが大切なんです。

聖霊は常に神様の御心を示し、みことばを通して、また人や賛美や環境を通して教えてくださいます。

その聖霊の促しに信頼し、与えられた働きを行うことです。

 

感情のいい加減さ

感情ってすごくいい加減。

一日の内に感情ってコロコロ変わりますよ。

朝、寝起きが悪くイライラカリカリモード。

ところがしばらくして職場や学校に行くと、あのイライラはどこに行ったの?とばかりに笑顔になって「おはようございます!」

そして、お昼近くになるとまたまたお腹が空いてきてイライラ。

お昼を食べるとお腹も満たされ笑顔に。

夕方帰ると疲れて不機嫌。。。

これが人間の感情です。

 

子どもの頃、思ったことないですか?

お母さんに叱られて、お母さんはカリカリしているんですが、そこに電話がかかると、豹変したように優しい声になって「もしもし~♪」って。

子どもながらに不思議だなぁって思いました。

 

感情ってこんなにいいかげんなんです。その感情に頼り、「あぁ、今は聖霊がおられない。聖霊様~おいでください。あなたが必要なのです~」って一生懸命に祈り求めている人がいますが、でもね、このような祈りをしなくても、その人の内には聖霊はおられるんです。

逆に聖霊に信頼していないんです、その人は。

 

私たちの内におられる聖霊様を認めよう!

私たちはクリスチャンであるということ、イコール聖霊が内住しておられるということを認めること、これが大事なんです。

あの人は聖霊がおられるけど、私はまだ。。。

私はまだ異言が与えられていないし。。。

それは聖霊が住んでおられることと関係ありません。

異言が与えられたことと聖霊が内住しておられることとは無関係で、異言は聖霊の賜物です。

 

聖霊バプテスマは、私たちが信じたときに与えられるんです。

だって、聖霊は教会をバプテスマするんですからね。

ここでいう教会というのは、○○キリスト教会とかそういう組織団体のことではなく、私たちクリスチャン一人一人のことです。

 

感情では無く、感覚でもなく、意志によって「アーメン。聖霊様が私の内に今住んでおられます。感謝します」って認めることです。

そして聖霊の導きに信頼して、クリスチャンライフを歩むのです。

 

祝福を祈ります。キリストの愛を込めて。。。

 

じゃぁね