キリストの優しい風

キリストの優しい風に吹かれ、自由に導かれ、癒やされ、変えられていく幸せをあなたと。。。

イエス様の真の姿を通して

こんにちわ~

今日も無事終わりました。

今週もあと1日、主よ、今週も守り支えてくださり、心から感謝致します。

 

 

 

 

これ、Twitterにアップしたものです。

実はね、これ、今日、ヨハネの黙示録1章を味わってて、その中で思わされたことなんです。

1章17節にこう記されています。

 

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この方を見たとき、私は死んだ者のように、その足もとに倒れ込んだ。

すると、その方は私の上に右手を置いて言われた。

「恐れることはない。わたしは初めであり、終わりであり、生きている者である。」

(ヨハネの黙示録1:17~18a)

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「この方」って、イエス様のことです。

ぼくたちのイメージするイエス様って、優しくて、愛に溢れて、深い慰め主であるお方。

でも、ヨハネが見たイエス様はそれとは違っていたんです。

 

栄光で照り輝き、燃える炎のような目、つまりすべてを見通し、人の心の奥底まで知り尽くしておられる目で見られ、両刃の剣、すなわち神のことばをもって人を裁かれるお方、威厳に満ちた声で語られたイエス様。

 

エス様が地上で歩まれたとき、ヨハネはイエス様のそば近くにいました。

そして彼は自らのことを「イエスが愛された弟子」(ヨハネ21:20)とヨハネ福音書で書いているヨハネ

その時から約60年後、ヨハネはイエス様に再会しました。

 

当時はイエス様の愛をいっぱい受け、いつも御そば近くにいたヨハネでしたが、この時、死んだ者のようにイエス様の足もとに倒れちゃったんです。

つまりあまりのきよさと栄光で卒倒して気絶しちゃったんです。

 

パウロも、栄光に満ちたイエス様を前にしたとき、倒れちゃったんですよね。

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ところが、サウロが道を進んでダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が枯れの周りを照らした。

彼は地に倒れて、自分に語りかける声を聞いた。

「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」

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栄光に満ちたイエス様、裁き主であり、義なるイエス様。

実は、将来ぼくたちがお会いするイエス様もこのイエス様なんです。

でも、多くの場合、優しくて、愛に溢れ、何でも赦してくださるお方、そのイメージがあまりにも強く、この義なるイエス様というイメージが希薄になっちゃうような気がするんです。

 

もちろん、イエス様は私たちの弱さをすべてご存じで、私たちのためにとりなし祈ってくださっているお方です。

エス様は本当に愛に溢れ、慰めに満ちておられるお方です。

でもね、そのイメージが強ければ強いほど、イエス様が今義なるお方であるということを忘れてしまうんですね。

そして、「友」という言葉のインパクトが強いので、まるでイエスちゃんとか、イエスくんって、もちろんそうは呼ばないけど、そういうレベルにイエス様を引き下げちゃうんじゃないのかなって思います。

 

あのヨハネが気絶しちゃう、これでイエス様がどんなに威厳と権威に満ちておられるお方かがわかりますよね。

ぼくたちは、この両面を理解し、イエス様に対する畏怖の念を持つことも大切なんだなって思うんです。

 

すごく興味深いのは、その権威と威厳に満ちたイエス様がヨハネのに上に右手を置いて、「恐れることはない」って、交わりの御手を出してくださったんです。

これ、重いなぁって思います。

エス様の右手、この栄光に満ちたイエス様がぼくたちに近づき、優しく右の手を置いてくださり、「恐れるな」って言ってくださる。

すごいですよね。そして、このバランスがものすごく重要なんです。

 

ぼくたちの愛する方、このお方がどういう方かということ、そのことを深く知れば知るほど、ぼくたちの歩みも変わってくると思います。

ぼくたちはイエス様の御前にへりくだり、日々礼拝する者でありたいですね。

そして、イエス様の愛の中で、真の平和、真の平安で満たされ、そこに憩う生活をしていきたいです。

 

そんなことを今日は思い巡らしました。

 

じゃぁね