キリストの優しい風

キリストの優しい風に吹かれ、自由に導かれ、癒やされ、変えられていく幸せをあなたと。。。

自己卑下からの解放

こんにちわ

今日も無事一日が終えようとしています。

主よ、感謝します。

 

さてさて、今日はみことばの分かち合いをしますね。

 

自己卑下からの解放

 

新約聖書のコロサイ人への手紙2章18~19節にはこのように記されています。

 

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自己卑下(じこひげ)や御使い礼拝を喜んでいる者が、あなたがたを断罪することがあってはなりません。

彼らは自分が見た幻に依り頼み、肉の思いによっていたずらに思い上がって、かしらにしっかり結びつくことをしません。

このかしらがもとになって、からだ全体は節々と筋によって支えられ、つなぎ合わされ、神に育てられて成長していくのです。

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 自己卑下とは?

自己卑下

この言葉に心が留まり、思い巡らしました。

これ、新改訳聖書2017年バージョンの訳なんですが、他の訳だと別の言葉で訳されています。

新改訳聖書第三版も「自己卑下」ですね。

 

ではそれ以外の訳では。。。

☆新共同訳聖書:偽りの謙遜

☆口語訳聖書:わざとらしい謙遜

☆文語訳聖書:殊更(ことさら)に謙遜をよそほひ

 

では、この「自己卑下」ってどういうことなんでしょう?

それは、当時、天使礼拝を教える異端の教師たちがコロサイにいて、彼らは聖徒たちに謙遜を示すように求め、直接神様を礼拝することは聖徒にはふさわしくないって教えていたんです。

なので、ここは「自己卑下」という訳よりも、「偽りの謙遜」、「わざとらしい謙遜」、「殊更に謙遜をよそほひ」の方が訳としては相応しいですね。

 

でも、この偽りの謙遜、あんがいぼくたちもやってるかもしれませんね。

「私なんて。。。」とか、「こんなんじゃ神様に喜ばれない」とか、自分をおとしめ、低く見る、そうですよね、これ、自己卑下ですよね。

 

ぼくらが自分を責めて、自分を自分で罪に定めて、「私なんて。。。」「俺なんて。。。」って落ち込む。

当時は天使礼拝をする異端に断罪されていましたが、今は自分で断罪しています。

 

パウロはそんな彼らに、今日の私たちに「断罪されることがあっちゃだめだ」って語っています。

 

私たちが救われたとき。。。

同じコロサイ人への手紙2章20~23節にこのように記されています。

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もしあなたがたがキリストとともに死んで、この世のもろもろの霊から離れたのなら、どうして、まだこの世に生きているかのように、「つかむな、味わうな、さわるな」といった定めに縛られるのですか。

これらはすべて、使ったら消滅するものについての定めで、人間の戒めや教えによるものです。

これらの定めは、人間の好き勝手な礼拝、自己卑下、肉体の苦行のゆえに知恵のあることのように見えますが、何の価値もなく、肉を満足させるだけです。

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「もしあなたがたがキリストとともに死んで、この世のもろもろの霊から離れたのなら」

この「この世のもろもろの霊」ってどういう意味なんでしょう?

新共同訳聖書はここを「世を支配する諸霊とは何の関係もないのなら」って訳しています。

また回復訳聖書という聖書では「この世の初歩的な教えから離れたのなら」って訳しています。

 

ぼくらは、イエス様がぼくたちの罪のために十字架にかかられ、完全に死なれて墓に葬られ、三日目に霊的とかじゃなくて、ちゃんと肉体を伴ってよみがえられたということを信じ受け入れたとき、その瞬間に罪が完全に赦され、救われました。

バプテスマを受けて救われるとか、よい行いをしないと救われないとか、そういう教えはすべて偽りであり、間違っています。

ぼくらはただ恵みにより、信仰によってのみ救われるのです。

 

でね、その時、イエス様と私たちは霊的に一つに結ばれるんです。

で、イエス様が十字架で死なれたとき、私たちもイエス様の内にいて、共に死んだんです。

そしてイエス様と共に十字架上で罪が完全に処分され、もうこの世を支配する諸霊、この世の初歩的な教えから離されています。

だから、もう救われる前の罪の束縛からは完全に解放されているんです。

 

それなのに自己卑下しちゃう。。。

それはね、悪霊がぼくらをイエス様から離そうとし、偽りの謙遜をさせようとし、心に如何に自分はダメダメなのかっていうことを囁いていくるんです。

そして、そのたんびに落ち込んじゃうんですよね、ぼくらは。

そして自己卑下して「俺なんて。。。」「私なんて。。。」ってなり、自分で自分を罪に定めて責めちゃうんです。

 

ぼくらはイエス様と一つにされ、イエス様と共に十字架で死んだんです。

それは感じようが感じまいが関係無く、事実なんです。だって聖書にそう書いてありますからね。

それを信仰でアーメンって受け入れるだけでOKです。

たとえまだまだダメダメであってもです。

ぼくらは死んだんですよーーーーーー!!!!!

 

霊的119番

そして、失敗したときはね、罪に定めて自分を責めるんじゃなくて、悔い改めることです。

これ、霊的119番って言われている箇所です。

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第一ヨハネ1章9節

もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。

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これ、よく伝道集会とかで語られますが、これは未信者のための箇所じゃなくて、信者、ぼくたちクリスチャンのための箇所なんです。

そしてこれは霊的119番、確かにぼくたちはイエス様と共に死んだので罪が完全に赦され、自由にされました。

でも、私たちはまだ完全にはされていません。罪を犯す性質は私たちの内にはあります。

だから失敗しちゃうことがあります。

でも、私たちが罪を犯したら、自分を責めることが解決方法じゃありません。

それは神様を悲しませることです。

そうじゃなくて、霊的119番に何と書いてありますか?

「もし私たちが自分の罪を告白するなら」です。これが鍵であり、特効薬なんです。

 

ぼくらが罪を犯したら、そのたんびに神様に自分の罪を告白し、その罪から離れればいいんです。

神様はこう言われています。

ぼくらが罪を告白すれば、神様は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。

ね、特効薬でしょ(*^_^*)

 

ぼくらがすることは落ち込むことでもなければ、自分で自分を罪定めして責めることでもないんです。

ぼくらが自己卑下から解放されること、それが神様が喜ばれることです。

 

 

私たちの中におられるキリスト、栄光の望み

コロサイ人への手紙1章27節にこう記されています。

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この奥義が異邦人の間でどれほど栄光に富んだものであるか、神は聖徒たちに知らせたいと思われました。

この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。

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ぼくらの希望、それはぼくらの中におられるキリスト、栄光の望みです。

ハレルヤ!!!

 

古い、罪と悪の奴隷状態だった過去のぼくらは、イエス様の福音を信じ受け入れたとき、イエス様と共に死にました。

だからもう過去の、古いぼくらは死んだんです。もう過去の罪とは何の関係もないし、罪を責めて立てられる必要もありません。

そして、罪を犯したら速攻霊的119番、罪の告白です。

そして、ぼくらの内には今、イエス様が住んでおられるんです。

 

結論:自己卑下からの解放

だから、自己卑下になりそうなとき、一歩立ち止まって、まず霊的119番、罪を告白します。

そして心の目をイエス様に向けるのです。

自分を責めることを止め、ぼくらの内にいますイエス様を見つめ、もう罪を告白したんだから責める必要はない、赦されたんだって、それを信仰によって受け入れるのです。

その連続です。

これが自己卑下からの解放の唯一の方法なんですよね。

 

ぼくらはすべてにおいて自由にされています。

この恵みを共に味わい、自分を責めて悲しむクリスチャンライフじゃなく、イエス様を味わい、イエス様を喜ぶクリスチャンライフをご一緒に送りましょう!

 

祝福を祈ります。イエス様の恵みの中で。。。

じゃぁね