キリストの優しい風

キリストの優しい風に吹かれ、自由に導かれ、癒やされ、変えられていく幸せをあなたと。。。

キリストのからだを建て上げよう!

こんにちわ

今日はとっても励まされた文章があるので、それを分かち合いたいと思います。

「キリストのからだ」っていう感動の内容です。

 

☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○

キリストのからだ

事故で片手を失ってからというものまる1年、ジェミーという女の子は、学校にも教会にも行こうとはしませんでした。
けれども、ようやく彼女も友だちに顔を合わせてもいいという気になりました。
母親は日曜学校の先生に前もって電話し、ジェミーが失った手のことを意識しなくてすむように頼みました。

先生は約束しましたが、あいにくその日曜日、病気になり、代理の先生に頼んだのです。
ところが、ジェミーのことを伝えるのを忘れてしまいました。

その日は、友だちを教会に誘おうという話で、代理の先生は最後に、おなじみのジェスチャーつきの詩をみんなでやろうと言いました。

(両手を頭の上で合わせて塔の形にして)「これが教会」
(両手の指をぱっと広げて)「これがみんな」

(合わせた両手を大きく広げて)「扉を開いてみんなに会おう!」

ジェミーの目に涙があふれました。
ジェミーの気持ちを察した13歳の男の子は彼女のかたわらにひざまずき、自分の片手をジェミーのなくなった片手の代わりにして、ふたりで一つのジェスチャーを作ったのです。

教会、塔、みんな、こうしてふたりは、真の教会とはどんなものか、みごとに示してくれたのでした。

☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○

 

このお話を読んだ後、第一コリント12章26節を改めて読みました。

☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○

一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。

☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○

 

私たち救われたクリスチャンは教会です。

○○教会とか関係無く、救われた一人一人はキリストの教会のメンバーなんです。

そしてこの教会はキリストのからだであり、からだの器官はすべて大切です。

弱い部分は他の部分が補い合い、そうやってキリストの教会は建て上げられていくんです。

 

からだの一つの器官が傷を負って痛かったら、からだ全体が苦しく痛いです。

それと同じように、ぼくたちクリスチャンも助け合い、励まし合い、お互いの弱さを補い合い、祈り合う、これが本当に大切なんですよね。

この13歳の男の子の行為、これこそぼくたちクリスチャンのあるべき姿なんですよね。

 

ひとつの賛美が心に響きました。


イエスが愛したように - 長沢崇史  (cover by Kenta)

 

新約聖書のヨハネの福音書13章34~35節にこうあります。

☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○

わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。
互いに愛し合いなさい。
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。

☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○

 

私たちクリスチャンに与えられているキリストの律法、イエス様の戒め、その中心は「互いに愛し合いなさい」

そしてそれは自分の愛じゃなくて、イエス様が私たちを愛してくださったその愛で。

そんなの無理~~~!!!!!

そう、ぼくたちの内にある愛は罪で汚染された愛だもんね。

 

でもね、そのぼくたちの内にいますお方はだれでしょう?

そう、イエス様です。

だからね、ぼくたちを通してイエス様の愛を流し合うことなんです。

 

キリストのからだを建て上げるため、お互いの弱さを補い合い、励まし、慰め、祈り合う。

あの13歳の男の子のようにね。

そしてその中心は「互いに愛し合うこと」です。

 

みーーんな、弱さがあります。

弱さなんかない、完璧だ!っていう人なんて一人もいません。

ある人は涙を流し、ある人はその痛みに耐えています。

 

ぼくたちは同じキリストのからだである愛する兄弟姉妹を愛し、助け合い、慰め合い、祈り合うこと、そうありたいですね。

そうやってキリストのからだは建て上げられていくのですから。。。

 

祝福を祈ります。キリストの愛を込めて。。。

じゃぁね

自己卑下からの解放

こんにちわ

今日も無事一日が終えようとしています。

主よ、感謝します。

 

さてさて、今日はみことばの分かち合いをしますね。

 

自己卑下からの解放

 

新約聖書のコロサイ人への手紙2章18~19節にはこのように記されています。

 

☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○

自己卑下(じこひげ)や御使い礼拝を喜んでいる者が、あなたがたを断罪することがあってはなりません。

彼らは自分が見た幻に依り頼み、肉の思いによっていたずらに思い上がって、かしらにしっかり結びつくことをしません。

このかしらがもとになって、からだ全体は節々と筋によって支えられ、つなぎ合わされ、神に育てられて成長していくのです。

☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○

 

 

 自己卑下とは?

自己卑下

この言葉に心が留まり、思い巡らしました。

これ、新改訳聖書2017年バージョンの訳なんですが、他の訳だと別の言葉で訳されています。

新改訳聖書第三版も「自己卑下」ですね。

 

ではそれ以外の訳では。。。

☆新共同訳聖書:偽りの謙遜

☆口語訳聖書:わざとらしい謙遜

☆文語訳聖書:殊更(ことさら)に謙遜をよそほひ

 

では、この「自己卑下」ってどういうことなんでしょう?

それは、当時、天使礼拝を教える異端の教師たちがコロサイにいて、彼らは聖徒たちに謙遜を示すように求め、直接神様を礼拝することは聖徒にはふさわしくないって教えていたんです。

なので、ここは「自己卑下」という訳よりも、「偽りの謙遜」、「わざとらしい謙遜」、「殊更に謙遜をよそほひ」の方が訳としては相応しいですね。

 

でも、この偽りの謙遜、あんがいぼくたちもやってるかもしれませんね。

「私なんて。。。」とか、「こんなんじゃ神様に喜ばれない」とか、自分をおとしめ、低く見る、そうですよね、これ、自己卑下ですよね。

 

ぼくらが自分を責めて、自分を自分で罪に定めて、「私なんて。。。」「俺なんて。。。」って落ち込む。

当時は天使礼拝をする異端に断罪されていましたが、今は自分で断罪しています。

 

パウロはそんな彼らに、今日の私たちに「断罪されることがあっちゃだめだ」って語っています。

 

私たちが救われたとき。。。

同じコロサイ人への手紙2章20~23節にこのように記されています。

☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○

もしあなたがたがキリストとともに死んで、この世のもろもろの霊から離れたのなら、どうして、まだこの世に生きているかのように、「つかむな、味わうな、さわるな」といった定めに縛られるのですか。

これらはすべて、使ったら消滅するものについての定めで、人間の戒めや教えによるものです。

これらの定めは、人間の好き勝手な礼拝、自己卑下、肉体の苦行のゆえに知恵のあることのように見えますが、何の価値もなく、肉を満足させるだけです。

☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○

 

「もしあなたがたがキリストとともに死んで、この世のもろもろの霊から離れたのなら」

この「この世のもろもろの霊」ってどういう意味なんでしょう?

新共同訳聖書はここを「世を支配する諸霊とは何の関係もないのなら」って訳しています。

また回復訳聖書という聖書では「この世の初歩的な教えから離れたのなら」って訳しています。

 

ぼくらは、イエス様がぼくたちの罪のために十字架にかかられ、完全に死なれて墓に葬られ、三日目に霊的とかじゃなくて、ちゃんと肉体を伴ってよみがえられたということを信じ受け入れたとき、その瞬間に罪が完全に赦され、救われました。

バプテスマを受けて救われるとか、よい行いをしないと救われないとか、そういう教えはすべて偽りであり、間違っています。

ぼくらはただ恵みにより、信仰によってのみ救われるのです。

 

でね、その時、イエス様と私たちは霊的に一つに結ばれるんです。

で、イエス様が十字架で死なれたとき、私たちもイエス様の内にいて、共に死んだんです。

そしてイエス様と共に十字架上で罪が完全に処分され、もうこの世を支配する諸霊、この世の初歩的な教えから離されています。

だから、もう救われる前の罪の束縛からは完全に解放されているんです。

 

それなのに自己卑下しちゃう。。。

それはね、悪霊がぼくらをイエス様から離そうとし、偽りの謙遜をさせようとし、心に如何に自分はダメダメなのかっていうことを囁いていくるんです。

そして、そのたんびに落ち込んじゃうんですよね、ぼくらは。

そして自己卑下して「俺なんて。。。」「私なんて。。。」ってなり、自分で自分を罪に定めて責めちゃうんです。

 

ぼくらはイエス様と一つにされ、イエス様と共に十字架で死んだんです。

それは感じようが感じまいが関係無く、事実なんです。だって聖書にそう書いてありますからね。

それを信仰でアーメンって受け入れるだけでOKです。

たとえまだまだダメダメであってもです。

ぼくらは死んだんですよーーーーーー!!!!!

 

霊的119番

そして、失敗したときはね、罪に定めて自分を責めるんじゃなくて、悔い改めることです。

これ、霊的119番って言われている箇所です。

☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○

第一ヨハネ1章9節

もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。

☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○

 

これ、よく伝道集会とかで語られますが、これは未信者のための箇所じゃなくて、信者、ぼくたちクリスチャンのための箇所なんです。

そしてこれは霊的119番、確かにぼくたちはイエス様と共に死んだので罪が完全に赦され、自由にされました。

でも、私たちはまだ完全にはされていません。罪を犯す性質は私たちの内にはあります。

だから失敗しちゃうことがあります。

でも、私たちが罪を犯したら、自分を責めることが解決方法じゃありません。

それは神様を悲しませることです。

そうじゃなくて、霊的119番に何と書いてありますか?

「もし私たちが自分の罪を告白するなら」です。これが鍵であり、特効薬なんです。

 

ぼくらが罪を犯したら、そのたんびに神様に自分の罪を告白し、その罪から離れればいいんです。

神様はこう言われています。

ぼくらが罪を告白すれば、神様は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。

ね、特効薬でしょ(*^_^*)

 

ぼくらがすることは落ち込むことでもなければ、自分で自分を罪定めして責めることでもないんです。

ぼくらが自己卑下から解放されること、それが神様が喜ばれることです。

 

 

私たちの中におられるキリスト、栄光の望み

コロサイ人への手紙1章27節にこう記されています。

☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○

この奥義が異邦人の間でどれほど栄光に富んだものであるか、神は聖徒たちに知らせたいと思われました。

この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。

☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○

 

ぼくらの希望、それはぼくらの中におられるキリスト、栄光の望みです。

ハレルヤ!!!

 

古い、罪と悪の奴隷状態だった過去のぼくらは、イエス様の福音を信じ受け入れたとき、イエス様と共に死にました。

だからもう過去の、古いぼくらは死んだんです。もう過去の罪とは何の関係もないし、罪を責めて立てられる必要もありません。

そして、罪を犯したら速攻霊的119番、罪の告白です。

そして、ぼくらの内には今、イエス様が住んでおられるんです。

 

結論:自己卑下からの解放

だから、自己卑下になりそうなとき、一歩立ち止まって、まず霊的119番、罪を告白します。

そして心の目をイエス様に向けるのです。

自分を責めることを止め、ぼくらの内にいますイエス様を見つめ、もう罪を告白したんだから責める必要はない、赦されたんだって、それを信仰によって受け入れるのです。

その連続です。

これが自己卑下からの解放の唯一の方法なんですよね。

 

ぼくらはすべてにおいて自由にされています。

この恵みを共に味わい、自分を責めて悲しむクリスチャンライフじゃなく、イエス様を味わい、イエス様を喜ぶクリスチャンライフをご一緒に送りましょう!

 

祝福を祈ります。イエス様の恵みの中で。。。

じゃぁね

 

平成最後の夏の最後に

こんにちわ

昨日、今日ととっても暑い一日でした。

多分、この暑さも今週前半、明日、明後日くらいまでなんでしょうね。

 

それでのんですが、平成最後の夏の最後、かき氷の食べ納めしました。

 

先月、かき氷の記事をアップしたんですが、昨日土曜日、朝起きたら雲一つない夏の青空だったんですが、青空を見てたら急にかき氷が食べたくなったんです。

多分今年というか、平成最後のかき氷(笑)になるんだろうなって思ってなんですけどね。

  

blog.gracelife.love

  

で、食べに行きました。


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こんな感じのお店で、天然氷でかき氷が食べられるお店なんです。

 

で、食べたかき氷はこれです。

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これ、何のかき氷かわかりますか?

パンプキン、かぼちゃです。

パンプキンミルクのかき氷、どんなんだろうと思って頼んだんですが、これがあうんです。

パンプキンの甘さとかき氷、不思議な程に美味しい。びっくりでした。

 

食べ終わるとほっとして、満腹感もあって、満足しました。

 

 

その後、近くにある海に行きました。

やっぱ夏といえば海ですもんね。

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陽が沈みそうな時間帯で、ほんと、とっても綺麗でした。

 

そして陽が沈み、、、

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潮風と波の音と潮風、そしてこの空、めっちゃ癒されました。

 

そして、平成最後の夏の最後、こうして癒しの時となりました。

でも、ほんと、海はいいですね。

海岸にいるだけで癒されます。

広い海を見ていると、神様の愛はこの海よりも深く広いんだなって思わされました。

神様のお創りになったものはほんと素晴らしいですね。

主の恵みに感謝しつつ。。。

ハレルヤ、主よ、感謝します。

 

祝福を祈ります。キリストの愛を込めて。。。

じゃぁね

目を覚まして、整えられよう

こんにちわ

昨日、今日と本当に大変な一日。火曜日は西日本に台風直撃、そして大阪では大変な被害となり、そして昨日の夜中3時過ぎ。。。

そう、北海道の大地震。

ほんと、今年はおかしいです。

 

 

 

 

 

 

Twitterでつぶやいたんですが、ほんと、この1年、って、まだ約4ヶ月あるんですけどね、今年一年を現す漢字って「変」だと思います。

でね、今年を表現する言葉って、ほんと「異常」ですね。

 

今年の災害、これが最後であることを祈らされています。

 

目を覚まして、整えられよう!

 

明日はどうなるのかわからない

でも、すごく思うんですが、今回の台風もそうですし、あの福井の豪雪もそうでしたし、今回の北海道の大地震もそうですが、私たちにとって「明日」ってはっきり決まってないんですね。

いや、1時間後、もっと言うと1秒後もはっきりしてないんです。

 

だってね、北海道民の人たち、5日の夜、明日の計画を考えながらきっと眠りについたんでしょうね。

ある人は、明日とっても素敵な計画が用意されてて、ウキウキしながら寝たのかもしれません。

それが夜中の3時過ぎ、突然の大地震。。。

停電になり、スーパーもコンビニも品が無くなり、店も開いても時間制限。

そしてスマホもつながらないし、公衆電話を無料で開放したところで、今、スマホの普及によって、公衆電話を撤去している率が高く、数が減っているので、公衆電話を探すのも大変。

ぼくも経験あるけど、公衆電話で電話しようとしても、おそらく一斉にかけるからパンク状態でなかなか繋がらないんだろうなって思います。

だれが5日の日の夜、予想出来たんでしょうね、明日こうなるって。。。

 

さくらももこさんがこないだ亡くなったけど、彼女も50歳のお誕生日のとき、まさかその3年後に自分が死ぬなんて夢にも思わなかったことと思います。

 

目を覚ましていなさい

聖書は「目を覚ましていなさい」って何度も警告されています。

私たちは明日どうなるのかわからない、そんな存在なんです。

そして、時代は本当に本当に暗くなっていきます。

将来に希望を持つこともほんと、むずいですよね。

 

終末に向けて。。。

そして、世界は終わりの章、つまり終末に向かっています。

いえ、聖書的にはもう終末の時代に入っています。

第一次大戦と共に世界大の戦争が始まり、イスラエル共和国が出来たことで、イスラエルと反キリストの王との平和条約を結ぶ条件が整ったからです。

いつ大患難時代が来てもおかしくない時代、それが今の時代です。

 

携挙の恵み

そして、それは同時にぼくたちクリスチャンにとっては大患難時代が始まる前に携挙の恵みに与るということです。

携挙は字のとおりで、携え挙げられるんです。

だれに?そう、イエス様にです。

 

ある日、ある時、イエス様が私たちを迎えに来て下さり、私たちは生きたまま天に挙げられます。

じゃぁその前に死んじゃったら?大丈夫。その時、亡くなったクリスチャンたちは肉体を伴って復活します。

そしてその瞬間に天に挙げられます。その後、その時生きているクリスチャンたちが天に挙げられるんです。

そして、その時、クリスチャンの肉体は栄光の体に変えられます。

シミもシワもありません。病気だって無いです。

みんな若くて肌も10代の肌です。

しかも、罪が私たちクリスチャンの内から一切無くなるんです。

その時は罪は死後です。

あっ、それと、アンチエイジングもダイエットも完全に死後になります。

それと育毛剤や白髪染めも無くなりますね(笑)

だって、そんなも必要ないし、みんなめっちゃ綺麗になるんです。

当然、全員ドスッピンです。逆にせっかくの美しさが化粧で台無しになっちゃいます。

 

私たちはその時、肉体的にも若くて最高な状態ですし、罪が一切なく、本来神様がお造りになった姿となります。

そう、神様の似姿に一挙に変えられるんです。

そして、神様と顔と顔を合わせてお会い出来るんです。

本来、神様はあまりにも聖いので、見ただけで死んでしまいます。

畏れ多いどころじゃないです。

そのお方とお会い出来るんです。

 

イエス様とクリスチャンとの結婚式

聖書はイエス様は花婿で、私たちクリスチャンは花嫁だと言われています。

携挙された後、天上でイエス様と私たちクリスチャンとの結婚式が待っているんです。

 

大患難時代が7年間続き、その後、千年間に渡るメシア的王国、これを「千年王国」と私たちは呼んでいますが、このメシア的王国の時、私たちクリスチャンもこの地上でイエス様と共に生活し、なんと、メシア的王国が始まったとき、私たちクリスチャンとイエス様との披露宴が行われるんです。

 

新しい天と新しい地での夢のような生活

その後、千年後にこの天地は滅びますが、新しい天と新しい地が用意され、私たちは永遠にそこに住むのです。

そこには罪はありません。イジメだって無いし、クレイマーだっていないです。

喧嘩もありません。

そこには神様の愛だけが溢れている世界なんです。

そこに私たちは永遠に住むこととなるんです。

 

これが私たちに用意されている将来の希望です。

でもこの恵みに与ることが出来るのは、イエス様の十字架と埋葬、復活を信じ受け入れたクリスチャンだけです。

多くの人はこの恵みに与れず、大患難時代に入ってしまいます。

 

目を覚まし、整えられよう!

ここ数日、今年の異常さを思い巡らし、その中でイエス様が「目を覚ましていなさい」って言われたことを痛感し、今がその時なんだなってつくづく思わされました。

そして一人でも多くの人が福音を受け入れて欲しいって思わされています。

共に携挙の恵み、そしてこの希望に溢れた恵みに入りたいですもんね。

 

いつまでも光があるわけではありません。

まもなく闇の時代が来ます。明日かもしれません。数分後かもしれません。

だからこそ、目を覚ましている必要がありますよね。

そして時代や世の中の常識に流されるのではなく、みことばにしっかりと立っていたいです。

イエス様との結婚式に備え、整えておきたいですね。

いつお迎えに来られてもよいように。。。

 

一緒にイエス様を待ち望みましょう!

 

祝福を祈ります。キリストの愛を込めて。。。

じゃぁね

おひさです

こんにちわ

早いもので、もう9月ですね。

 

ずーっとブログを書くことが出来ずにいました。

書きたい気持ちはいっぱいだったんですけどね。。。

 

またこれから書いていこうと思ってます。

これからどうぞよろしくお願いします。

 

とりあえず、今日はごあいさつということで、この辺で。。。

 

じゃぁね(@^^)/~~~

夏の美味しいもの

こんにちわ

今日も一日、暑かったですね。

最近、暑くて嫌だなぁとか、ネガティブなことを考えるより、あと約一ヶ月、この夏をどう有効に、楽しむか、そのことを考えてます。

 

それでなんですが、夏と言えばかき氷。

ここ数日、テレビを観てて、かき氷の特集をやたら観ることがあり、影響受けやすいんですね(笑)、段々と頭の中がかき氷モードになってきて、それでかき氷、天然氷のかき氷を食べよう!っていうことになりました。

 

で、行ったお店なんですが、

ひなたカフェ

ひなたカフェ

っていう神奈川県の葉山にあるカフェです。

 

ここ、場所が分かりづらく、路地裏みたいなところにあり、ちょっと見つけるのが大変でした。


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こんな感じです。

 

で、この青い車の奥がお店、ほんと分かりづらいです。
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こんなお店です。
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さぁ、そしてかき氷、これです。


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これ、いちごマスカレポーレっていうかき氷。

氷がふわっふわで、口の中で溶けてしまいます。

めっちゃ美味しい(*´ч`*)

今まで食べたかき氷の中でトップクラスの美味しさです。

 

知ってます?天然氷だと、あのキーーーンとする頭の痛み、ないんです。

 

ほんと、至福のひと時でした。

 

まだまだ暑い日が続きますが、かき氷、食べに行きませんか^^*

 

神様に感謝して、ごちそうさまでした。

 

 

ぜんぶ神様から

こんにちわ

ずいぶんとお久しぶりです。


気づいてみたら8月、このところバタバタしててというか、実際の忙しさというよりも精神的な慌ただしさ、まっ、はっきりいうと心が落ち着かず、気づいてみたら8月も半分過ぎちゃってました

でね、ブログ、書きたいな書きたいなって思ってたんですが、なかなか書けず。。。

うーーーーん

やっぱ気持ちって大きいですね。

 

ということで、ブログ復活です。

これからまた導かれるまま、ゆるーーーーく書いていこうと思ってます。

ぜひぜひ仲良くしてくださいね。

 


さてさて、話は変わりますが、みことばの分かち合いします。

旧約聖書の歴代誌第一29章14節にこう書かれています。

 

☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○
私たちの神よ。今、私たちはあなたに感謝し、あなたの栄えに満ちた御名をほめたたえます。
このように自ら進んで献げる地下rを持っているとしても、私は何者なのでしょう。
私の民は何者なのでしょう。
すべてはあなたから出たのであり、私たちは御手から出たものをあなたに献げたにすぎません。
歴代誌第一29:13~14
☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○

 

このみことばを味わいながらね、あぁ、ほんとそうだなぁって思ったんです。

だってね、ぼくたちが持っているもの、ぼくたちがやってきたこと、成功したと思ったこと、すべての知恵はみーーーーーんなぼくたちが自分で作り出したり獲得したものじゃないんです。

ぼくたちは「努力のたまもの」とか「努力、がんばりによって報われた」とか、そういう言葉を使うけど、でもね、それらはぜーーーんぶ、実は違うんです。

 

すべてのこと、すべてのものはぜーーーーーんぶ神様から出たんであって、ぼくたちは神様の御手から出たものをもって必要を満たし、それを感謝し、神様にその恵みを献げ、礼拝してるんです。

まさにこのみことばそのものですよね。


つまりね、神様から頂いたものをお返ししているに過ぎないんです。


そのことがわかると、すごくへりくだらされますね。

だって、何一つぼくの手によってしたんじゃないんですからね。


そう、すべての必要は神様の御手の中にあり、その御手から頂いているんです。

そして、ぼくらはその恵みを感謝し、自分の手柄にするんじゃなく、神様から与えられ、その恵みによって生かされているんだっていうことを自覚することなんですよね。


そんなことを思わされたんです。

ほんと、いつもそのことを覚え、感謝する歩みでありたいですね。

傲慢になったり、自分の力でとか思うことなく、神様から与えられている恵みを感謝する歩みをね。

 

そんなこんなですが、これからよろしくお願いします


祝福を祈ります

キリストの愛を込めて。。。


じゃぁね

 

 

西日本の大豪雨を通して

天のお父様。

今回の西日本の歴史的な大豪雨のニュースを通して現状を見る時、本当に心が痛くなります。

 

これまで幸せに暮らしていた家や大切にしていた思い出、そして美しい光景が一夜にして大洪水によって破壊されました。

この光景を見、全てを失い避難所での生活を強いられ、お風呂にも入れず、食料もままならず、トイレも完備しきれていないという現状、熱い体育館で夜を過ごさなければならないその苦しみ、、

本当に心が痛いです。

 

主よ、憐れんでください。彼らに助けの御手をのべてください。

そして、この最悪な地獄絵のような状況の中で、その真ん中に主よ、あなたの十字架を現してください。

 

全てはあなたの御手の中です。

そして、地上には頼れるものは何も無いということを教えられました。

私たち一人ひとり、あなただけに信頼し、頼り切り、あなたに依り頼んで歩めますように。

ただあなただけを、ただあなただけを崇め、礼拝します。

 

今回被災され、今苦しみのただ中にあるお一人ひとりにあなたの深い慰めが注がれますように。

全ての必要をお満たしください。

そしてこの暑さと悲しみの中、生きる力をお与えください。

この悲しみの中で僅かであっても希望を見出すことが出来ますように。

 

そしてクリスチャンの方々には、この状況の中でもあなたの愛の御手を感じることが出来ますように、その悲しみが癒されますように。。。

 

イエス様の御名によってお祈りします。

アーメン

わたしは主。ほかにはいない

こんにちわ

先週末、西日本において本当に悲しい出来事がありました。

今回の豪雨を思うと、とっても心が痛いです。

 

私たちは自然の前には何も出来ないんだなぁって、改めて思わされます。

それほど人間って弱いんですよね。

 

今回の歴史的な大豪雨、テレビやネットなどでしか知らず、実際に経験されている方から見たら、とてもとても何も言えないのですが、今、主の前に祈っています。

 

 

今回、大豪雨を通して、ひとつのみことばが心にあります。

旧約聖書のイザヤ書45章18節にこうあります。

☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○

天を創造した方、すなわち神、

地を形造り、これを仕上げた方、

これを堅く立てた方、

これを茫漠(ぼうばく)としたものとして創造せず、

住む所として形造った方、

まことに、この主が言われる。

「わたしは主。ほかにはいない。」

☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○

 

天を創造し、地を形造られたお方、そしてすべての自然を創造し、支配しておられるお方である主なる神様、万軍の主であるお方のひとことです。

それはこれ。

わたしは主。ほかにはいない。

 

このイザヤ書のみことばが心にあります。

 

今回、関東地方は豪雨をもたらした梅雨前線からは逸れました。

でもそれは主の憐れみであって、次回は関東地方にも来る可能性はあります。

西日本で大変な中、土曜日の夜、千葉では震度5弱の地震がありました。

この地震を受けて、多くの人が「これはヤバい。いつ何が起こるかわからない」と戦々恐々となっているのが現状です。

 

そんな中、もう一度、この天地は偶然に出来上がったのではない。

神様の創造の御業であり、天地万物の支配者であるお方を畏れ、このお方に信頼し、頼り切る歩みをすること、これがすべてなんだなぁって思わされました。

 

私たちが頼ることの出来るお方は唯一、天地万物を造られた主なる神様だけですよね。

わたしは主。ほかにはいない。

 

今、この先何があるかわかならい時代において、目を覚まして主を見上げ、聖書のみことばにしっかりと立って歩んでいきましょうね。

そんなことを思わされました。

 

今週一週間も、主を第一とし、主だけに信頼し、みことばにしっかりと立って歩む一週間となりますように☆

 

祝福を祈ります。

キリストの愛を込めて。。。

じゃぁね

 

万軍の主に依り頼もう!

こんにちわ

7月、2018年の下半期突入しましたね。

こうやって書くとそうなんだなって感じるけど、でも正直実感は無いです。

だって、まだ7月、12月31大晦日まではまだまだですもんね。

 

今月も主に信頼し、一歩一歩歩んでいきたいなって思います。

 

 

さてさて、今日はみことばを分かち合いたいと思います。

旧約聖書のハガイ書です。

 

☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○

ハガイ1:2

万軍の主はこう言われる。

「この民は、時はまだ来ていない。主の宮を建てる時は」と言っている。

☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○  

 

これ、神様がイスラエルの民に語っている言葉です。

で、この時って、イスラエルの民がバビロンに捕囚として連れて行かれてから70年後に帰還したんですが、帰還した後、神殿を再建するよう命じられていたんですが、彼らはまだ神様の時が来ていないから、神殿を再建する時じゃないって言って、ずーーっと再建せずにいたんです。

 

それに対して、神様が「この民は『時はまだ来ていない。主の宮を建てる時は』と言っている」って言われたんです。

 

この1章2節、この箇所を通して信仰とは何かっていうことを教えられます。

 

「神様の時」、これ、ぼくたちはよく使いますね。

「まだ神様の時じゃないよね」ってね。

もちろん、自分の勝手な思い込みや、自分の野心とかで、神様の時を無視して突っ走ること、それは違うし、絶対に失敗に終わります。

神様の時を無視しちゃ絶対にダメですよね。

 

でもね、この時のイスラエルの民は違ったんです。

神様のご計画をいろいろと理由づけて、先延ばししていたんです。

「今行動してもサマリヤが攻めて来る、異教の民が攻めて来る。だから神殿建設なんかやっても、自分の命が危ない。

今は神殿建設をストップさせ、良い時が来るのを待とう」ってね。

或いは、「神殿建設するためにはすごくお金がかかる。まずは自分たちの悲惨な生活状況を改善してからじゃないと出来ないじゃん」ってね。

こうやってどんどん、どんどんと神様の命令を先延ばししていたんです。

 

そのイスラエルの民の罪を神様は指摘されたんです。

 

この1章2節で、神様はご自分のことを「万軍の主」って言われました。

この「万軍の主」ってどういう意味かっていうと、如何なる困難があっても、必ずあなたを助け、ご自身の目的を達成することが出来るお方だという意味なんです。

その万軍の主である神様がおられるのに、この時のイスラエル民は、その神様から心が離れ、自分のちっぽけな価値判断や経験で判断し、この状況じゃどうみたって無理だって決断しちゃってたんです。

 

神様はそんなイスラエルの民のことを「この民は」って言ってます。

本来なら、「わたしの民は」って言うところをね。

たとえば、だれか仲の良い人がぼくのことを紹介するとき、「みのんさんは」じゃなくて、「この人は」って言われると、寂しい気持ちがします。

皆さんもそうじゃないかなって思います。

「この人は」って寂しいっていうか、冷たい響きがありますよね。。

 

神様はあえて、ご自分の民であるイスラエルの民に対して「この民は」って言われたんです。

そこにイスラエルの民と神様との距離感、如何に彼らの心が神様から離れているかが表現されているんです。

 

この1章2節を味わいながら、すごく考えさせられました。

自分はどうなんだろうって。

果たして神様は「万軍の主」だって、どれだけ理解しているんだろうってね。

そして当時のイスラエルの民のように、現状を見て勝手にまだ神様の時じゃないって決めつけてないのかなって思わされたんです。

また、今更ダメじゃ無いのかとか、勝手に決めつけてないのかなって感じました。

 

現状や常識、神様の力はそのようなものを遙かに超えています。

それを目の前の状況や、常識、経験、そのようなもので神様の力を過小評価しちゃダメなんですよね。

 

同じハガイ書の2章8節にこうあります。

☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○

ー万軍の主は言われる。ー

銀はわたしのもの。金もわたしのもの。

☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○

 

神様の内にすべての必要はあり、満ちているんですよね。

神様の力を過小評価して、先延ばしする人生、ほんと、それは違いますよね。

 

万軍の主である神様はぼくのすべてをご存じであり、ぼくの必要もすべて知っておられます。

そして、必ずぼくを通してご自身のご計画を余すところなく為してくださいます。

 

この万軍の主にどれだけ信頼出来るか、ここにすべてがあるんだと思います。

目の前に見える現状や、常識を見て、今更だめだとか、まだ神様の時じゃないとかと言い訳をするのか、万軍の主に信頼して前進するのかです。

 

ぼくたちがどこを見ているのか、そこなんですよね。

神様を見上げ、信頼していきたいです。

そして諦めないことです。

神様は必ずすべての道を開いてくださいます。

結婚もそうです。神様はぼくの思い、呻きをきいてくださっています。

祈りは天に届いているし、イエス様はぼくのために大祭司としてとりなし祈っていてくださっています。

結婚だけじゃなく、今目の前を見ると難しいと思うことも、万軍の主に不可能はありません。

このお方に目を注ぐこと、これがすべてですね。

 

サタンは目の前の状態や常識というツールを利用して囁いてきます。

そうやってぼくの心をくじこうとします。

でも、その声に耳を開くこと無く、逆に退けることです。

そして、見える状況から、いつも万軍の主を見つめていきたいです。

 

今月から始まった2018年の下半期、万軍の主に全幅の信頼を置き、このお方の権威に服し、一歩一歩、このお方の優しい愛に満ちた御手に導かれて歩んでいきたいです。

下半期もいろんなことがあると思うし、心揺さぶられることもあるかもしれません。

今、台風が九州に来ていますが、時にぼくの心にも台風が来ます。

でも万軍の主の御翼の陰に隠れ、このお方からすべての必要を頂き、満たして頂き、主の栄光を現す歩みをしていきたいです。

万軍の主を見上げて。。。

 

今月も、そして下半期もよろしくお願いしますね☆

祝福を祈ります。キリストの愛を込めて。。。♡

 

じゃぁね