キリストの優しい風

キリストの優しい風に吹かれ、自由に導かれ、癒やされ、変えられていく幸せをあなたと。。。

状況に関係無く喜び、祈り、感謝するために。。。

こんにちわ


ブログ、少し時間が空いちゃいましたね
書こう、書こうとは思ってるんですけどね。。。

 

さてさて、今日はみことばの分かち合いをします。
有名な聖句なので、知ってる人も多いと思うんですが、第一テサロニケ5章16,17、18節です。

 

☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆
いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべてのことにおいて感謝しなさい。
これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆ 

 

これ、「キリストの律法が与えられて」という記事にも書いたんですが、今日、私たちに与えられているキリストの律法といわれるものです。

 

www.gracelife.club

 
「これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおれることです」ってありますしね。

 

でね、この箇所を最近、思い巡らしている中で、あぁ、本当に深いなぁって思って、それで今回、分かち合おうと思いました。

 

1,いつも喜んでいなさい

ガラテヤ5章22節に「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」ってありますが、この喜びも御霊の実の一つです。


だからね、この「いつも喜んでいなさい」って、がんばって喜ぶことじゃないんです。
本当は悲しみでいっぱいなんだけど、とてもじゃないけど喜べないんだけど、一生懸命喜ぼうと努力することでもないんです。

 

ぼくたちは時に絶望の淵に追いやられることがあります。
とてもじゃないけど喜べないっていう時もあります。

でもパウロは「いつも喜んでいなさい」って命じ、しかも「これはキリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」って言ってます。


これ、どういう意味なんでしょう???

この鍵は「キリスト・イエスにあって」なんです。


ぼくたちはみんな生まれた時からクリスチャンだっていう人はひとりもいません。
「いや、私はおかあさんのお腹の中にいたときからそうですよ。だっておかあさん、クリスチャンなんだもん」
それはおかあさんのことで、あなたのことじゃないです。


私たちはみんな罪人として誕生しています。

それは親から子へと代々受け継がれてきた罪人としてのDNAを持って誕生し、成長の過程で罪も共に育ち、自己表現するようになるにつれ、罪を犯すようになっていくんです。
悲しいかな、それが私たち人間の実態なんです。

 

そんな私たちがイエス様と出会い、イエス様の十字架と復活の福音を受け入れ、救われました。
その時、私たちの罪は全部赦され、処分されたんです。
イエス様が十字架にかかられたのは、私たちの罪を処分するため、イエス様が私たちの罪をすべて身に背負い、罪そのものとなり、十字架上で犠牲の捧げ物となられたんです。
本来、私たちが処罰されなければいけない罪を一身に身に受けられ。。。

 

そして十字架上で「完了した!!!」って苦しみの中声を振り絞って叫ばれ、「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」って言われ、息を引き取りました。
「完了した」って、ギリシャ語で「テテレスタイ」といい、これは商業用語で借金が完済したっていう言葉なんです。
だから、当時、借用証書に「テテレスタイ」って書かれていると、借金が完済した証拠となったのです。
つまり、私たちの罪のための代価がすべて払われ、私たちはもう罪の奴隷から完全に解放されたんです。

 

これがイエス様の十字架です。

 

私たちはイエス様の十字架の死によって、完全に罪から解放され、神の子とされました。


しかし、イエス様は死後墓に葬られ巻いたが、三日後、死からよみがえり、天に上り、今私たちのために日々とりなし祈っていてくださっています。
このことがわかったときに喜ぶことが出来るんです。

 

そして、どんなに苦しみの中にあっても、とてもじゃないけど喜べない状態にあったとしても、その苦しみのただ中にイエス様もおられ、共に苦しみ、涙してくださっています。
イエス様は私たちの呻きも苦しみもすべてご存じで、共に涙し、共に苦しみ、私たちのことを心配され、愛され、そしてとりなし祈っていてくださる天の大祭司なるお方です。

 

私たちがこのことを見いだし、その悲しみの中でイエス様を見上げるとき、この世の喜びとは全く異質の喜びで満たされるんです。
たとえ状況は変わらなくても、でも、そこにイエス様もおられる、この恵みを体験すればするほど、状況に支配されない喜びが心の奥底から湧き出るんです。

 

そして、私たちは死後、イエス様にお会いします。
そう、死んだら終わりじゃないんです。

 

人生80年か90年、うまく生きられたとして、125歳が人間の寿命です。
たかだかそれっぽっちしか生きられないんです。
だって、明治時代の人って生きていたらもう百数十歳ですが、でもぼくたちのお父さんのお父さんのお父さん、明治の人ですよ。
そのお父さんはちょんまげを結っていた人ですよ。
そう考えると、ほんと人生って短いなぁって感じます。

 

でも、ぼくたちにはその先があるんです。
そう、永遠のいのちです。
ぼくたちにはこの希望があるんです。
だから、今の苦しみが全てじゃ無いんです。

 

ぼくたちが聖書の真理を知れば知るほど、今の状態に一喜一憂することから解放されます。
状況がどうであれ、ぼくたちはイエス様に愛されているんです。
そして、イエス様が共におられるんです。

ここに真の喜びがあるんです。

 


2,絶えず祈りなさい

これは24時間、ずーーーとお祈りしなさいっていう意味じゃ無いです。
そんな人、一人もいないです。


そうじゃなく、常に神様に信頼し、神様を第一とした歩みをすることです。


「祈りは呼吸だ」っていう言葉があります。

ぼくたちが息を吸ったり吐いたりするとき、「よし、息吸うぞ~~」って気合い入れて吸うなんてことないですよね。
無意識に吸ったり吐いたりしてますよね。


おんなじように、祈りも、イエス様を感じ、イエス様を見上げ、目には見えなくてもイエス様が共におられることを味わいながら生活する、これが祈りなんです。

 

その中でイエス様味わいながら、自然と主に語りかけ、主を認め、主との対話が出て来るんです。

 


3,すべてのことについて感謝しなさい

これ、2番目の祈りとリンクしてるんですが、日々の生活の中で、イエス様を認め、イエス様を味わい、目には見えないけどイエス様が共におられるということを味わいながら歩むと、自然と「主よ、感謝します」っていう告白が出て来ます。

毎日の些細なことであっても、すべては偶然じゃないし、当たり前でもないです。

 

汚い話でごめんなさい。
ぼくはネフローゼ症候群という病を患った経験があります。
それは何らかの原因で腎臓の濾過する機能が破壊され、淡泊が尿と一緒に出て、そして尿が出なくなり、どんどんと体の中に尿が溜まってしまうという病です。

 

ぼくは肺まで水が溜まり、あと一歩遅かったら脳まで溜まってしまうところだったということでした。
そんな中、苦しい治療をし、尿が出たとき、泣いてしまいました。
「主よ、感謝します。無事おしっこが出たこと、心から感謝します」ってね。

 

ぼくたちがおしっこを出すこと、またうんちを出すこと、これは単なる生理現象とかじゃなく、恵みなんです。
だって、その機能がおかしくなったら、その当たり前と思っていたことも当たり前じゃ無くなるんですからね。

 

すべては神様の恵みであり、ぼくたちは神様によって生かされている存在なんです。
それがわかると、この「すべての事について、感謝しなさい」っていうことがわかると思います。

 

Twitterで以前、こういうことを書きました。

 

 

ぼくたちが目の前の状況に目を注ぐと、そこには不安や恐れがあります。
でも、視線を目の前の状況からイエス様に移すと、そこに平安があるんです。
ぼくたちは霊的近眼になっちゃだめなんです。

 

いつも喜んでいましょうね。
たえず祈りましょう。
すべての事について、感謝しましょう。

最後にこの箇所の賛美を紹介します。

 

 

ぼくたちの内にいます聖霊様が、この真理を理解させ、イエス様にある喜び、状況に支配されない、状況を越えた喜びで満たしてくださいますように。。。

 

キリストの愛を込めて。。。


じゃぁね