自分をさばくことからの解放
こんにちわ
今週もあと1日。なんかホッとしています。
主よ、感謝します☆
今日は、ぼくがいつも励まされているみことばを分かち合います。
自分をさばくことからの解放
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第一コリント4:3~5
しかし私にとって、あなたがたにさばかれたり、あるいは人間の法廷でさばかれたりすることは、非常に小さなことです。それどころか、私は自分で自分をさばくことさえしません。
私には、やましいことは少しもありませんが、だからといって、それで義と認められているわけではありません。私をさばく方は主です。
ですから、主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません。主は、闇で隠されたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのときにに、神からそれぞれの人に称賛が与えられるのです。
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「自分で自分をさばくことさえしません」、告白できているか?
パウロは「私にとって、あなたがたにさばかれたり、あるいは人間の法廷でさばかれたりすることは、非常に小さなことです。それどころか、私は自分で自分をさばくことさえしません」って言っています。
すごいですね~
私たちは果たして「私は自分で自分をさばくことさえしません」って告白してますでしょうか?
ぼくはこれまで逆のことをやってました。
つまり、自分で自分を罪に定め、裁いていたんです。
「あぁ、なんてちっぽけな存在なんだろう。失敗ばっかしちゃって。。。
他の人はちゃんと出来てるのに、自分はすべてが中途半端だ。。。
こんなんじゃダメだ。俺はダメだ。。。
あぁ、消えてしまいたい」
そんな風に心の中でつぶやいてしまっていました。
誰かに何かを言われるとすぐ傷つくし、落ち込むし。。。
なんて弱っちいんだろう。。。
そんな思いが心におも~~~くありました。
パウロの自分をさばかない秘訣
でもね、この箇所を味わうと、そんな自分の思いって間違ってたんだなって感じるんです。
パウロが自分を裁かないのは、彼のメンタルが鉄のように強いからとか、そんなことじゃありません。
そうじゃなくて、裁くのはイエス様だけだっていうことを理解しているからなんです。
4節で「私をさばく方は主です」って言ってますよね。
クリスチャンの位置的立場
私たちはイエス様が十字架で死なれ、墓に葬られ、三日目によみがえり、今も生きておられるお方と信じ受け入れ、信頼したとき、罪が完全に赦され、罪の奴隷から救い出され、自由にされました。
そして、私たちは今、神の子とされています。
もはやクリスチャンは罪に裁かれることはありません。
でも私たちは、自分の弱さから罪を犯してしまうこと、失敗しちゃうことありますよね。
そんな時はどうすればいいのか?
その答えは聖書に書かれています。「霊的119」と言われている箇所です。
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第一ヨハネ1:9(ヨハネ119)
もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。
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私たちが罪を告白するなら、その罪を赦し、不義からきよめてくださるんです。
告白するって、「こんなことをしました」って神様に報告するということじゃないです。
罪を認め、その罪から方向転換するのです。
私たちはみんな弱さを抱えています。
でも失敗しても、この「霊的119」を適用するなら、罪が赦されるんです。
だから、私たちを罪に定めることなど出来ないんです。
そして、私たちを裁くのは人間じゃありません。
誰であっても、私たちを裁くことなど出来ないし、赦されません。
裁くのはイエス様だけです。
私たちの位置的立場を理解し、そこに立つとき、パウロの告白、「私は自分で自分をさばくことさえしません」って言えるんです。
自分をさばくことからの解放
じゃぁもう完璧に大丈夫、いつもこの告白をしているって言えるかっていうと、未だ落ち込むことはあります。
でも、そのたんびにこのパウロの告白を思い出し、自分の位置的立場を思い巡らすんです。
そして、自分の内面からイエス様に視線を移し、イエス様を見上げるようにしています。
そうやって解放されてきています。
「私は自分で自分をさばくことさえしません」
お互いに、こうやって自分を裁くことから自由にされていきましょうね。
そうやってキリストの似姿に変えられ、何よりもイエス様がお喜びになられます。
ハレルヤ☆
祝福を祈ります。キリストの愛を込めて。。。
じゃぁね(@^^)/~~~